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  • 江戸時代の火災 へ行く。

*目次 [#cc8501cc]

#contents


*はじめに [#x931bad3]

 「火事と喧嘩は江戸の華」とよく聞くが、多くの人命を奪いかねない重大事なので、様々な対策が考えられた。しかし、実際には何度か壊滅的打撃を受けている。


*火災と景気 [#c187f4ad]

 火事で焼け野原になると、家の建替えで仕事を得られる人が増えて、景気が上向きになる。それで景気が悪くなると、放火が増えたといわれる。


*江戸三大大火 [#g8f59f94]

-明暦の大火(振袖火事)
--明暦3年(1657年)
-目黒行人坂【ぎょうにんざか】の大火
--明和9年(1772年)
-丙寅【へいいん】の大火
--文化3年(1806年)

**明暦の大火 [#rcc63f67]

-江戸開府後、最初の大火。
--2日間で3回出火する。
--江戸の町の約60%が消失する。
---江戸城の本丸・二の丸・三の丸、大名屋敷160、旗本屋敷770余、寺社350余が失われた。
--死者は10万人以上。
-火元は本郷の本妙寺【ほんみょうじ】
--本妙寺は幕末までは残っていたが、現在は存在しない。現在の地図と照らし合わせると、本郷5丁目22番地のようである。
-明暦3年1月18日昼過ぎに本郷から出火した火災は翌日未明に一旦鎮火したが、昼前に小石川から新たに出火。火は神田・竹橋方面から江戸城へ迫り、本丸・二の丸・三の丸から大名小路の諸屋敷を焼き尽くした。権威を誇った江戸城の天守もこの火に飲まれて焼け落ちて、以後財政難を理由に天守が再建されることはなかった。
--僧侶でありながら仮名草子【かなぞうし】の作者とも知られる浅井了意【りょうい】が『むさしあぶみ』という題の目撃体験談を書き残している。
-巷説では本郷丸山の本妙寺で行われた振袖供養の火から出火したと呼ばれる。
--[[麻布]]の遠州屋彦右衛門の娘梅野が、上野の花見で美しい寺小姓を見初め、その寺小姓が着ていた紫縮緬【ちりめん】に菊を染めた振袖を作って夫婦遊びをした。恋煩いのすえ梅野が死ぬと、両親は心根をあわれんで振袖を菩提寺の本妙寺に納められた。生臭住職がそれを古着屋に売ったら、買って着ていた娘がまたなくなった。3度まで同じ振袖が本妙寺に戻ってきた。気持ちが悪くなった住職が、振袖を焼いたら、空に舞い上がり、火の粉が本堂にかかって火事になったという話である。
---そのため、''振袖火事''とも呼ばれる。
--振袖を着ていた娘たちの悲劇を火事と結びつけてできあがった伝説である。
-「丸山火事」「丁酉火事」とも呼ばれる。
-浪人による放火だという噂が立ち、謀反を起こそうとしている浪人の仕業だと恐れおののいた大名もいた。その後、放火の容疑者が捕まったが、釈放されている。
-大火の後に、火元とされる本妙寺が移動させられることも、罰を受けることもなく、しかも[[法華宗]]の中で大きな役職を任され寺格【じかく】が上がっているという不自然な点がある。
--そのため陰謀説も考えられている。本妙寺の住職が誰かに言い含められて火元を引き受け、見返りをもらったという説である。
---『明暦の大火』を書いた黒木喬【たかし】は本妙寺の住職に依頼をしたのは、江戸の都市計画を司る老中・[[松平信綱]]ではないかと推測している。
---この説の理由のひとつに、本妙寺がある本郷は江戸の北西であるからである。なぜならば、空気が乾燥する冬から春先にかけて、風が強い日に本郷辺りから出火すると、江戸一体に燃え広がるのは容易に想像できたからである。
-この火事を機に、隅田川に架せられたのが両国橋【りょうごくばし】で、橋の東西には広小路【ひろこうじ】という火除地((本来は防火用の空き地のはずだが、地代をとって町人へ貸し、床店【とこみせ】などができて盛り場として賑わった。))が設けられた。
-将軍に拝謁するために、江戸に来ていたオランダ商館長の一行がこの火事に遭遇して、記録を残している。
-[[林羅山]]は、この火事で蔵書が失ったショックに加えて、病の治療も満足にできず、亡くなっている。
--避難中の駕籠【かご】の中でも、本を読んでいたらしい。
-罹災【りさい】した人たちに対する救済措置
--大名に対しては、帰国させたり、[[参勤交代]]を免除した。また、お金を貸している。
--旗本に対しては、拝領金を渡したり、蔵米【くらまい】の前借りも許している。
--庶民に対しては、施粥【せがゆ】、米の放出をしている。
-この大火で亡くなった人たちを祀るために、[[両国]]に[[回向院]]【えこういん】が建てられた。
-江戸場内が炎上したので、幕府は諸大名に下屋敷を与えて、災害の際に非難できるところを確保した。これによって、麻布や青山といった周辺地区の定地化が進んだ。
-明暦の大火のとき、本丸に火が及んだ際に、秋元越中守富朝【あきもとえっちゅうのかみとみとも】が女性たちを非難させようとして[[大奥]]に飛び込んだまま、行方不明になるという事件が起きている。火災後に焼け残った大奥を徹底的に調べたが、遺体すら見つからなかった。そこで、秋元は女性たちに集団で犯された後に殺され、遺体を始末されてしまったのだと噂された。
-[[石見宗山]]【いわみそうざん】は、20歳頃に明暦の大火を経験し、晩年になって『後見草』に明暦の大火の経験談を書いた。
-牢払いの起源
--[[伝馬町]]【てんまちょう】の労屋敷を世襲で預かる[[石出帯刀]]【いしでたてわき】は、囚人たちを牢から出してやり、一ヶ所に集めてこう言った。「火が鎮まったら、全員[[下谷]]【したや】の[[蓮光寺]]【れんこうじ】に集まること。もし約束を守れば、減刑するように申請する。もしこの約束を破った者は、なんとしてでも探し出して、一門までも成敗する。」解放された囚人たちは火災が鎮まった後に全員が戻ってきた。そこで石出帯刀は評定所に約束通りに死刑囚の減刑を願い出て許された、という美談が伝わっている。
---これは作り話とされている。浅草御門【ごもん】は周囲が石垣で囲ってある。ここに凶悪犯を伝馬町の牢から押し込め、御門を閉じて通行止めにした。模範囚や軽犯の囚人だけが一時釈放されたらしい。
---これ以後、大火のときは牢払いが行われるようになった。
-[[浅草]]から[[両国]]方面に非難しようとした人々は、浅草御門に殺到したが、御門が通行禁止であるために通れない。仕方なく火に巻かれた人が少なくなかった。
-この混乱のどさくさに紛れて、死者の懐中を探って貴重品を盗んだり、置き去りになっている長持を持ち去る泥棒が少なくなかった。
-四代将軍[[徳川家綱]]の頃
-江戸城が丸焼けになり、歴代の徳川将軍が所持した左文字【さもんじ】の刀(([[三好長慶]]の叔父である宗三【そうざ】(善長【よしなが】)が所持していたため、宗三左文字ともいわれる。))も瓦礫の中に埋もれた。幕府は鉄片と化したその刀を探し出し、打ち直して、その輝きをよみがえらせた。
--維新政府は[[明治天皇]]が東京に遷都した明治2年(1869年)に、信長の神霊を京都船岡山の地に祀るように命じて、建勲大神【たけいさおのおおかみ】の神号を与え、建勲【けんくん】神社を創建した。このとき、徳川慶喜が信長の神霊にこれを捧げた。慶喜は約300年後には[[織田信長]]に左文字の刀を返還したのである。
--左文字の刀は振袖火事で一度焼けたため、国宝にはならず、国の重要文化財に指定されている。
-明暦の大火の後に、4代将軍家綱は「大火で多数の死者が出たのは、江戸の地図がなかったためだ」といったと伝えられている。
--民衆が江戸の地理をよく把握していれば、死者はもっと少なくて済んだかもしれないと考えたのである。
--そこで家綱は大火直後に、大目付北条安房守正房【ほうじょうあわのかみまさふさ】らに命じて江戸図「万治年間江戸実測図」を作成させた。
--その後、この万治年間江戸実測図を基にして、1670〜73年にかけて、その後の資料を取り入れ、寛文五枚図が刊行された。この寛文五枚図によって、江戸の人々はやっと正確な江戸図を目にするようになった。
-乱を起こした由比正雪の残党による放火だという噂が立ち、実際に犯人とされる残党が捕まっている。徳川の体制がまだ安定していない時期でもあった。
--そこで江戸市民の不安を取り除くために、火事の原因をはっきりさせておきたかった幕府は、あえて本妙寺に火元役を引き受けてもらい、その代わりにすぐに債権を許可したという説が残されている。


[補講][[川村瑞賢]]【ずいけん】は、明暦の大火で木材を買い占め、巨万の富を得た。 ◇


**目黒行人坂の大火(明和の大火) [#o83f6a31]

-死者は1万4,700人とされる。
-大円寺から出火し、春先の南西の強風で火は江戸市中に及び、日本橋を越えて本郷方面にまで達した。
-大円寺の売僧【まいす】長五郎坊が女犯を住職に叱られ、逆恨みして、物置に放火した。
-火事後の資材不足に商人がつけこんだため、物価は10倍にも上がってしまった。
-世直しのため急遽「安永」と改元したが、軽く狂歌で皮肉られてしまう。
--「年号は 安く永しと 変われども 諸色高直【こうじき】 いまにめいわく」
-犠牲者を追悼するために作られたといわれる石造五百羅漢像【ごひゃくらかんぞう】が残っている。
--この像は東京都の指定有形文化財となっている。


**丙寅の大火 [#o942291f]

-死者は1,200人。
--この人数に抑えられたのは、過去の2つの大火による消防体制の強化があったからである。
-芝方面で出荷し、浅草にまで燃え広がった。


*その他の火災 [#s8d5a083]

**天和の火災 [#fdc7c76e]

-天和【てんな】の火災
--天和2年(1682年)
-天和2年12月に本郷駒込(本郷円山とも)の大円寺【だいえんじ】から出火し、本郷・日本橋から本所【ほんじょ】・深川【ふかがわ】まで及んだ大火災。
-八百屋お七のエピソードで有名。
--[[井原西鶴]]の『好色五人女』によると、火事で焼け出された本郷追分【おいわけ】の八百屋八兵衛一家は、近所の吉祥寺に避難。一人娘のお七は、そこで寺小姓の吉三郎【きちさぶろう】と出会う。二人は一目を忍ぶ仲となるが、焼け跡に家が立ち直ると八百屋八兵衛一家波そこに戻ることになる。そのため、二人は離れ離れになってしまう。お七は吉三郎に会いたい一心で、翌年新築になった自宅に放火する。火はすぐ消し止められたが、江戸で放火は重罪に当たり、市内引き回しのうえ、鈴の森(鈴ケ森【すずがもり】)の刑場で火刑に処せられる。
--話に脚色が加えられているが、実在の人物だと言われる。
-円乗寺にお七の墓がある。
-お七は実在したのか?
--八百屋お七を架空の人物と断定できないのは、『好色五人女』が1686年2月に出版されているからである。収録されている「恋草からげし八百屋物語」は創作であるが、モデルになった女性と事件は存在したと思われる。
--架空の話であったとしたら、何度も歌舞伎で上演されたりするだろうか?
---現にお七役で大当たりをとった岩井半四郎は追善の墓まで建てている。


**方広寺落雷による火災 [#p87c97d6]

-寛永10年7月1日の夜10時すぎに、京都東阿弥陀ケ峰ふもとの方広寺(([[豊臣秀吉]]が天正14年に建設。俗称「大仏殿」。秀吉の死後、家康が「国家安康」の鐘銘に対して難癖をつけて、豊臣家を滅ぼすきっかけにしたのは有名な話。))に雷が落ち、本堂・仁王門・南門・廻廊・仏像の累をことごとく焼き、翌2日の午前10時ごろやっと鎮火した。


**麹町の火災 [#q204504d]

-文政6年(1823年)12月25日の夜に、麹町3丁目北側より出火し、翌日昼頃に鎮火される。
-折からの強風にあおられ、北は1丁目から五丁目の呉服店岩城屋まで、南は油屋玉井から達摩門まで飛び火してひとなめにした。
-また、東側は堀端から紀州邸を始め多くの大名屋敷が焼けた。
-さらに、あいにく火の道に当たった平河天神はこの夜歳の市で賑わっており、死人が出た。


**寛文の大火 [#zc1d488d]

-寛文8年(1668年)2月、牛込酒井忠直邸からの出火他2件と、同月6日小日向からの出火を合わせ、被害は武家屋敷2,400余り、寺社130余り、町屋132町、農家170に及ぶ。


**引化元年の大火 [#c8667313]

-引化元年(1844年)6月30日に大火が起き、牢払いが行われた。
--このとき[[高野長英]]([[蛮社の獄]]で終身刑であった)は牢払いに乗じて脱走をする。
---実は、高野長英が牢で働いていた番人をそそのかして、放火させたという説が有力である。


*江戸幕府の消防体制と防火手法 [#gf923c36]

-江戸城付近で火災が起こり場内に火の粉が降ったときは、火消5組はただちに火事場から引き上げ、大手・内桜田・一橋・雉子橋【きじばし】に待機して目付けに連絡する。場合によっては場中に入って火を防ぐことになっていた。
-元禄5年(1692年)11月に江戸城大奥で失火があった。二の丸の火消が玄関前に詰めたが、火が消えたので事なきをえた。御持仏部屋の下女が七輪として使っていた赤銅の銅壺【どうこ】の内部を紙でふいて、その紙をゴミ箱に入れて2階に置いた。紙に火気が残っていて塵に引火したのが原因と思われている。
-火事で建物が焼け落ちたときに、瓦が崩れ落ちて非難する人が多数死んだことがあり、明暦の大火直後は瓦そのものが禁止された。そこで家屋の大部分は焼屋造り【やきやづくり】という岩葺屋根に外壁がすべて下見【したみ】板張りの粗末な構造になった。火事に会う度に焼けるので命名されたという。
--8代将軍吉宗のときに、幕府の防火対策の見直しが行われ、町火消しの創設などと合わせて、瓦葺きが奨励されるようになった。このときに奨励された瓦が、現在の家でも使われている浅瓦【さんがわら】という軽い構造の瓦で、従来の本瓦よりも枚数も重量も少なくなった。
--本来は防火効果のある瓦葺きにしたいところだが、普請ができず大店でも板葺きの家が多くあった。そこで、幕府は防火のために板葺きの上からカキの殻を敷き詰めることを奨励した。しかし、単にカキを敷き詰めるだけでなく、粘土で固める必要があり、そうすると屋根が重くなってしまい建物が潰れる恐れがあるため、多くの家では手抜きし、防火効果はあまりなかったといわれる。
-カキの殻は燃やせば漆喰の原料となる良質の貝灰ができるので、江戸では重宝された。


**大名火消 [#idfbdbb8]

-明暦の大火以前から、6万石以下の大名16家を4組に編成した大名火消に消火活動を行わせていた。
-大名火消しといっても、大名屋敷を守るためではなく、大名たちが請け負わされていただけである。
-大名火消しは、江戸城や将軍家の菩提寺などが火災に見舞われたときに駆けつけるという役である。
-指揮を取るのは大名家の家臣だが、実際に働くのは大名家に雇われた人足【にんそく】である。


**定火消 [#a51fac8f]

-明暦の大火の反省に基づき、翌年には定火消【じょうひけし】を設置する。
-定火消は旗本4人にそれぞれ消化屋敷を与えて、与力【よりき】・同心【どうしん】を付属させて、火消人足【ひけしにんそく】を常駐させるものであった。
-定火消になれるのは3,000石〜5,000石の旗本であった。
--定火消はよい家柄の旗本が就く名誉職であった。
-武家地の消化が優先であった。

***定火消同心 [#i94ff518]

-1年分の給料は与力が150俵、同心は30俵とされている。
--今の金額に換算するのは難しいが、30俵というのは家族が生活するのにぎりぎりの額だったと考えられる。多くは内職などのアルバイトをして暮らしていた。

**町火消 [#nf880e76]

-町方に自衛的な消防組織ができたのは、享保3年(1718年)である。
-同5年には町火消【まちひけし】として、「へ・ら・ひ」を除く「いろは」文字と「百・千・万」の47組(後に「本」が加わり48組)に加え、本所・深川に16組を配置した。
--火を連想するので「ひ組」はない。また、「へ」は誰でも屁を連想してしまうだろうし、「ら」も男性の象徴である隠語「まら」を連想してしまう。さらに、「ん」は発音が難しいから敬遠された。その代わりに「百・千・万」を入れた。
-町火消は、町奉行支配下の火消人足改【あらため】の与力・同心の指揮下にあったが、費用は町方の負担が基本であった。
-男伊達【おとこだて】だったので、町人から頼られていた。
--相撲取りと喧嘩をしたエピソードも残っている。


**江戸時代に使われた消化道具 [#gca62c60]

-竜吐水
--天秤棒を両側から交互に押して使うポンプ式の[[消火器]]。
--火事になると、町火消は竜吐水を持っていったが、効果はあまり期待できなかったようで、後年には持っていかなくなった。
-玄藩桶
--久留米藩が大名火消を務めたときに使った、天秤棒を2人で担ぐ水桶が便利だったようである。

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竜吐水(川越市蔵作り資料館で撮影)
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*参考文献 [#s67ec9a0]

-『大江戸見聞録』
-『江戸吟味問答控』
-『山本博文の江戸学講座』
-『江戸を騒がせた珍談、奇談、大災害』
-『かわら版 江戸の大変 天の巻』
-『一問一答クイズ大江戸風俗往来』
-『なぜ、江戸の庶民は時間に正確だったのか?』
-『お七火事の謎を解く』
-『戦国武将 怖い話、意外な話』
-『東京を江戸の古地図で歩く本』
-『東京科学散歩』
-『徹底大研究 日本歴史人物シリーズ13 歌川広重』