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  • 江戸時代の飢饉 へ行く。

*目次 [#jf58c2af]

#contents

*天明の大飢饉 [#jca94dd5]

-天明3年(1783年)に東北で起こった大飢饉である。
-東北の人口が3分の1に減ってしまったという。
-実はこの歴史的な大飢饉のとき、中国や西日本では米が余っていた。ただ藩を越えて輸送することが禁じられていたため、みすみす多くの人が餓死してしまったのである。
-当時南部藩(現在の青森県の東半分と岩手県の北半分)の城下町として栄えた盛岡では、あまりの飢饉状態で[[人肉]]の市があったぐらいである。
--餓死した人間の体を塩漬けにして樽に入れて、それを食料品として売買していたという。
-[[彼岸花]]【ひがんばな】のような毒草も、球根を晒して除毒して、食用していたほどひどかった。
-天明の[[打ち壊し]]を導く。

**飢饉になった要因 [#d5bbeb1d]

-天明3年(1783年)は年初からことのほか寒い日が続いた。「大小いちまぜて、火災また多し」と記録にある。
-天明3年4月8日に、休火山であった[[浅間山]]【あさまやま】が噴火を起こした。山頂から黒煙を噴き上げ、小噴火を繰り返し、その度ごとに軽い地震を起こしていたが、7月5日の夜になってこれまでにない大きな噴火を起こした。江戸に火山灰が降ったのは6日だけであったようである。この粉塵は、田畑を埋めてしまった上に、日本列島の中央部の上空を覆い、異常気象をもたらせた。その後数年間に渡って、日本は凶作に見舞わされてしまう。
-7月10日に、北陸一帯に大雨が降り、越中や加賀は洪水に見舞われた。この大雨は台風によるものらしく、日本周辺の海上が大荒れとなり、多数の回船が難破するという被害を出した。


**米価 [#p0c1b7de]

-浅間山が噴火を起こしている最中の5月頃から上がり始めていた。
-米価高騰の兆しはすでに天明元年(1781年)の秋頃に見えていた。
--1升=銭100文
---しかしこの相場が高いというのではなく、むしろそれまでが安かったのである。
-[[田沼意次]]【たぬまおきつぐ】が幕府の首班となり、幕府の財政建て直しのために増税対策を執るようになった明和安永年間(1764〜1781年)の頃に、また米価が上昇傾向を見せ始める。
--商工業を奨励して、生産力を高めながら増税をすれば、幕府も国民も豊かになるだろうと考えたのだが、農村部では新たな負担に反対する農民の一揆が相次ぎ、都市部では商人たちが増税分を商品価格に上乗せしたためインフレが起こってしまう。しかも、田沼がインフレ傾向を押さえ込むつもりはないと見て取った米商人たちは、米価の先高を予想して、思惑買い・買いだめ・売り惜しみに走る。
-よって、天明3年5月の米価の上昇は、安政年間末頃から続いているインフレ傾向の延長にあったもので、凶作が原因ではなかった。


*天保の飢饉 [#d2c55189]

-天保4〜7年(1833〜36年)まで全国的な大飢饉が起こった。
-まずこの年は風水害のために関東・東北にかけて大凶作になり、翌年からは低温多湿の異常気象のため作物は全滅した。
-作柄は東海・南海両道で4割5分、山陰で3割5分、奥州で2割8分という惨状であった。
-農村では田畑を捨て、妻や娘を女郎に売り、おのれは乞食になって放流する農民が続出した。
-死体を食うどころか、生きている者の肉までむさぼり食う惨状である。
-幕府や諸藩は難民に米銭を与え、江戸にはお救小屋を立てて収容、同時に米価の引き下げを図ったが効果はなかった。
-この飢饉のため打壊しや百姓一揆が起き、[[大塩平八郎の乱]]のきっかけになった。


*参考文献 [#d55d2466]

-『江戸を騒がせた珍談、奇談、大災害』
-『かわら版 江戸の大変 天の巻』

-『うめぼし博士の逆・日本史[1]』